その日、コリアンダは憂鬱だった。 空を真っ赤に染めて沈み行く夕日を、ボーっと見つめながら今日の夕食の時の、兄の言葉を思い出していた。 運ばれてくるスープを横に、ワインを一口飲んで兄は唐突に口を開いた。 「コリアンダ、聞いてくれ。」 コリアンダが顔を上げるのを確認して、兄は静かに言葉を続けた。 「次の感謝祭の日にウィルが来るんだ、……とは言ってもお前は覚えていないだろうが。」 兄はコリアンダの反応を確かめるように、ちらりと目配せをした。 「少しは。」 コリアンダが短く答えると、兄は小さくうなずき続ける。 「彼は、隣国、イメリア王家の次男だ。」 テーブル中央のパン籠に手を伸ばす。 「私も彼に会うのは15年振りになるか……。」 手にしたパンをしげしげと眺めた後、無造作に引き千切り口に運ぶ。 コリアンダは、そんな兄の一連の動作を目で追い、兄の言う事を聞きながらも、頭の中は別の事を考えていた。 (そんな人と合って私はどうするのだろう)、と。 (顔も忘れてしまって、かすかに残る子供時代の記憶。それも、靄がかった様に、夢のような記憶。) そんなコリアンダの考えがまとまらない内に、兄がまた話し始めた。 「彼も、今では立派にイメリア国王の片腕となっている。」 兄はまたここで言葉を切った。 そして今度はスープにスプーンを浸け、軽くかき回した後、これを口にする。 (行儀の悪い)とっさに、それを見てコリアンダはそう感じた。そして、自分もスープを口にする。 …… 「彼はお前を娶りたいそうだ。 笑わないでやってくれよ。初恋の相手がお前なのだと、彼は言ってた。 昔、子供の頃会ったお前の事が忘れられないのだと。」 暫くの間を空け、兄は一気に言った。 コリアンダにはその言葉の意味が、とっさに理解できるものではなかった。 兄の目を見る。兄はじっとコリアンダを見ていた。 そのとたん、コリアンダの頭の中は真っ白になった。 その一瞬後、次々に色んな思いが現れ、消えていく。 彼女の知らないところで話は進められていた事。 そして、唐突に告げられた事実。 しかし、そんな事よりも、無機的に頭の中で繰り返される言葉があった。 (昔の私?私は変わった。もう子供の頃の私はどこにもいない。昔の私 を好きになんてならないで!………………。) 「とりあえず、会ってやってくれ。彼はとても楽しみにしていたよ。」 「おめでとう、コリアンダ。」 後の、兄の言葉も義姉の言葉も、彼女の耳には届かなかった。 ただ、頭の中で繰り返されるその言葉は、次第に強くなっていった。 どこまでも澄んだ空は、夏を感じさせた。大きな雲が一つ、遠くの山の上を流れている。 唐突。ノックする音。そしてそれに続く侍女の声。 「姫様、お兄様がお呼びですよ。」 コリアンダの思考が途切れる。 すでに、夕闇が空の大半を埋め尽くしていた。赤い夕空は、わずかに西の空に残るだけ。 コリアンダは扉のある方を向き、侍女に答える。 「わかりました。すぐに行きます。」 もう一度、西の山に沈む夕日に目をやる。一日の終わりを感じた。 (この窓から見る夕日は、いつも変わらないのに。) そして、窓を閉じる。 (あぁ、戻ったら明かりを点けなければ) その夜コリアンダは夢を見た。幼い頃の夢。 そこはどこまでも緑の草原だった。 時折吹く風は草原の草を揺らし、草の1本1本に反射する太陽の光は、ウェーブとなって緑色の大地を流れた。 コリアンダは兄と一緒に走っていた。 その先の小高い丘。二人が目指す先には、一人の少年が二人に手を振っている。 兄が何かを叫び、大きく手を振り返す。 コリアンダも同じ様に手を振って叫ぶ。 少年は、より一層大きく手を振り答える。 その手は、少年の背後の無限に広がる深い青色に、溶け込んでいきそうだった。 その青空は、目にまぶしかった。 深い緑の大地と、青空。そして、心地よい風。 そして、その朝コリアンダは気持ちよく目覚めることが出来た。かすかに残る夢の感覚がそうさせた。 とは言っても、頭の中には昨日の事が巣くっているのだが、現実的に捉える事はまだ出来ない。 コリアンダにとって、何か不思議な感覚だった。 そんな気持ちを振り払うように、頭を手のひらで軽くこづき、ゆっくりとベットから出る。 侍女を呼ぶ呼び鈴を鳴らそうかと思ったが、それはやめにした。なんとなくこの時間を邪魔されたくなかった。 穏やかな朝日が、カーテンに揺られ部屋の床を流れる。 窓に近付く。窓の外を小鳥が朝を告げるように、チッチッチと声をあげながら横切った。 床には、その影も流れる。 コリアンダはそっと窓を開ける。わずかな隙間から朝の風が勢いよく流れ込んだ。カーテンを揺らし、コリアンダの髪を流れ、部屋を一巡する。 東の空には、朝日が優しい光をやどしその姿を覗かせていた。 (あぁ、なんて綺麗な……)一瞬の感慨。しかし、こう感じられる自分を不思議にも感じる。 その時だった。 「何か良い事でもあったんですか、姫様」 風と共に、男の声が流れ込んできた。その突然な呼びかけにコリアンダは何も答えられなかった。 この窓のすぐ傍には1本のブナの木があるのだが、声はそこから聞こえてくるらしかった。よく見ると、緑の葉のモザイクの中に人影がちらついている。 無礼な! 頭に浮かんだのはそれだった。 「何者です。国王の妹である私の部屋を覗き見ようなどと。」 「あ。いや失礼を。朝日が綺麗なので、つい…… すぐに降ります。」 人影はそう言ってすごすごと降りていった。 下まで降りたその男は、小走りに中庭の方へと駆けて行った。 男は薄汚れた木綿の上着に、こげ茶のズボン、そして緑色の大きな前掛けは、彼が王宮の庭師である事を現していた。しかし、その髪は地味なその姿に不釣合いなほどに綺麗な金色で、風になびく度にきらきらと光っているようだった。 (朝日のせいかしら)、と思う。さらに、(それにしてもなぜあの時、人を呼ばなかったのだろう)、と不思議に思えた。衛兵はいつも近くに居る。 (あの者は、さも当然の様にあそこに居た。そして、当たり前のように私に声をかけた。……自然に…… そう言えば、朝日が綺麗だからだとか……変わった者だ。) 昼下がり。 整えられた芝生と、規則正しく植えられている小高い木々、足下にはレンガが敷き詰められ、赤い通り道を作っていた。そして真中には小さな噴水があり、壷を持つ女性を模した像がその壷から絶えず水を流し続けていた。 コリアンダが中庭に来ると言う事は、ティータイムかそうでなければ何処かの屋敷に赴くとき、その心を落ち着かせるためである。 この時も、それに違わなかった。 パーティーの出発前と言う事もあって、この時の姿も深紅のドレスと言うものだった。首周りには大きな『ひだ襟』が取り巻き、その他にも袖口や、まるでドームのように膨れ上がったスカートの裾にも小さなフリルが沢山ついていた。 夏と言う事もありそのドレスも半袖ではあるのだが、昼の日差しは強い、その中はすでに吹き出る汗で湿っていた。それをさらに感じさせるのは、腰の窮屈さと、下着のシルクが足にまとわりつく様な感じがするところだった。 そして何より、このドレスはコリアンダが好んで着るような感じがするものではなかった。 「姫様、お似合いでございますよ」 コリアンダの気持ちをよそに、侍女の一人がこんな事を言った。「ありがとう」と言って、小さく会釈して返す。 コリアンダはこんなところを顔に出さない、口にしない、ところがあるのだが、しかしその時。 「そうかな、姫様はもう少し自然な感じの方が似合ってると思いますが。」 コリアンダと数人の侍女達が一斉に後ろを振り返る。そこには庭師の格好をした金色の髪の男が、全身に植木の葉っぱを付けて立っていた。その腕には、生まれて間の無いような子猫が抱かれていた。「ミーミー」と消え入りそうな、か細い声でないている。 誰もが、何を考えているのだと言った風に見えるところに、加えて男は言い放った。 「そのドレスは、少し飾りが過ぎるのではないでしょうか。」 「失礼でありましょう、姫様に対して!」 あまりの暴言、と考えたのか。侍女の一人が、そんな男に対して声を荒立てた。 他の侍女達も、一様に眉を吊り上げ男をにらむ。しかしコリアンダはそんな事を堂々と言うその男に興味を覚えた。そして同時に、風にゆれる金色の髪を見た。 「貴方は今朝の……」 「あぁ、憶えていて下さいましたか。」 男は嬉しそうにそう言った。 二人の、そんな短いやり取りを見て、侍女が訝しげな顔をした。そして、また何かを言おうとしたところで、兄の使いがコリアンダ達を呼んだ。 「姫様、参りましょう。」 しぶしぶ、と言った風にその場を去る侍女達。それと共に中庭を後にするコリアンダに対し、男は小さくお辞儀をした。 その日のパーティーは、いつもに増して面白くなかった。少なくともコリアンダはそうだった。 |