次の日、コリアンダは鳥のさえずりを耳に目を覚ました。 昨日よりもまだ幾分か早いようで、窓を開けると辺り一面薄い霧が立ちこめていた。湿りを帯びた空気はコリアンダの肌に張り付くような感じがした。それは寝起きの火照った身体と頭を徐々に醒ましていってくれた。 顔を出している太陽は、ぼんやりとした光となって見えるだけだったが、それはとても優しく、綺麗に感じられた。 しかしこの朝、あの男の姿は無かった。 「今日は各地の国営施設を訪問する。そのつもりで準備をしておいてくれよ・・・・・・ん、どうしたコリアンダ、どこか悪いのか。」 朝食の席で、兄はこんなことを言った。何がそう見せたのかコリアンダには分からない。 「いえ、どこもそんなところは。」 「そうか、それなら良いんだが。何だか元気がないように思ったんでな。」 (そうなのだろうか。いつもと同じ・・・・・・はず・・・・・・)そう思った時、ふと今朝のことを思い出した。(あの庭師の男、今日は来ていなかった。) しかし、ただそれだけのことだった。 その後、兄はまた何も無かった様に話を続けた。 朝食の後のコリアンダは日常通りフルートの練習をする。一国の王の妹として、又、姫君としての一つのたしなみとして15の時から始めたものだ。それから4年も経つとそれなりのモノにもなっている。現にコリアンダに教授している音楽家もそれなりにほめてくれるし、なによりパーティーの席などでは参加している人々の評判もいい。これはコリアンダのいわゆる一つの自慢であり、自信でもあった。 そして昼食をとり、その後は今朝兄が言っていたように十余りの国営施設の視察に赴く、これも度々あることで数十有るこういった施設を順番に見て回るのは、王家としての一つの成すべき事であった。 しかしここでのコリアンダの仕事は、多くの労働者達に笑顔を振りまく事だけで、その他には時折汗にまみれた顔の労働者に声をかけてやるだけで仕事は終わってしまう。 その他に、顔見せ程度に出かける食事会や社交パーティー。コリアンダはこの様な仕事にも必ず参加した。 そして、形通りに挨拶をして。いつもと変わらぬ笑顔を振りまき。時には自慢のフルートを披露して。最後には「優雅で物静かな姫様」という印象を残していく。 淡々とこれらをこなし、国の内外問わず変わらぬ印象を与える。 「何のため」等と今更問えないような、コリアンダにとって当然の仕事となっていた。 一日が過ぎ、やがて夜も更け、コリアンダは眠りについた。 その夜、コリアンダはまた夢を見た。この時もコリアンダは幼い少女だった。遙かな空は無限に広がる紺碧の世界。その中には鮮やかな深緑が風に揺れていた。そして、さらにその中に一人の少年が一人。風になびく金色の髪は高くオレンジ色の太陽の光の中に輝いて見えた。 そびえるブナの木を見上げるコリアンダには、少年のいるところがとても高い所だと感じられた。 コリアンダは少年に声をかける。その声は音にはならなかった。 しかし少年の答える声は鮮やかにコリアンダの耳に届いた。 「ここ、風が気持ち良いんだ。」 どこまでも蒼い空は果てなく。その中を流れる真っ白な雲はくもりの無い純真なものだった。 そしてその少年の広げる腕は、その空にとけ込みそうに感じられた。 鳥のさえずりと朝日の輝き。開け放つ窓は朝の冷たい空気を一気に吸い込み、部屋の中に新たな流れを生み出した。 男は鳥のさえずりと聞き違うような口笛を吹きそこにいた。 遙か頭上を二羽の小鳥がくるくるとじゃれあうように、楽しげな歌と共に通り過ぎる。それはまるでその男の呼びかけに答えるように。しかし、彼等が飛び去ってしまっても、男の口ずさむ口笛は途絶えることはなかった。どこまでも澄み渡る青空の中に吹き放つようにそれはいつまでも続くかのようだった。 コリアンダはそれをそっと見ている事しか出来なかった。なぜならその男の横顔はどこか寂しげで、哀しみに沈んでいた。 ふっと口笛は止み、そして唐突にコリアンダに声をかけた。 「おはようございます。姫様。」 いつものその男には見られない落ち着いたような感じがした。 「昨日は、どうしたのですか。」 この男がここに居ること自体おかしな事なのに、変な問いかけである。 男はそれに答えているのかいないのか、いつも通り遠くを見つめたまま答えた。しかしその声は小さく、沈んだものだった。 「猫が死んだんです。」 最初コリアンダには何の事だか分からなかった。 男は変わらぬ調子でまたポツリと呟いた。 「元気になってきたと思ったのに・・・」 コリアンダは一つのことを思い出した。 あの時、つい先日パーティーに行く前に中庭に立ち寄ったとき。突然、植木の茂みの中から現れた男がその腕にそっと抱いていた小さな迷い猫。 「あの時、もう少し早くに気付いていてやれば・・・」 そして、そのひらめきは確信に変わった。しかし、だからといってコリアンダは何を話しかければ良いのか分からなかった。どのように話しかければ良いのかが分からなかった。 そのままコリアンダは窓を閉じた。最後に男が何かを呟いていたが、その声はコリアンダに届くような物では無かった。 空気の流れが止まってしまった部屋の中、コリアンダはあの男の哀しみを知ることが出来ず、何も声をかける事も出来ない自分自身がもどかしたった。しかし何よりもそんな男の感情に耐えきることが出来ず、窓を閉めてしまった事が、あの男とのつながりを一方的に切ってしまったようで、その事が心の中の重たい物になっていた。 しかしそれでも再び窓を開けて男の顔を見ることは出来なかった。 |