日張山青蓮寺

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なかなかに
  山のおくこそ 住よけれ
    草木(くさき)は人のさがを言わねば(中将姫)

菟田野の中心部から南東におよそ4キロメートル。標高595メートルの日張山の中腹に、ひっそりとたたずむ青蓮寺。うっ蒼とした杉木立の間を歩きつづけると、やがて目の前にぽっかりと空の見える所。
小さな流れ、宇賀志川の源流にかかる無常橋(むじょうばし)をわたり、山道を右手にとってつづら折れに登りつめたところに日張山青蓮寺(ひばりやませいれんじ)があります。

中将姫(ちゅうじょうひめ)

奈良朝天平宝字(ならちょうてんぴょうほうじ)4年(760)、右大臣藤原豊成(ふじわらとよなり)公の息女中将姫は、継母のざん言により14歳のときここ日張山に配流されました。しかし、家臣、松井嘉籐太春時(まついかとうたはるとき)と妻静野(しずの)の情けによって助けられて、ここに草庵を結び2年6ヶ月の間、閑居練業(かんきょれんぎょう) 、念仏三昧(ねんぶつさんまい)の日々をおくりました。
父、豊成公は、ある日この地に狩りに来て中将姫と不思議な再会をはたします。
奈良の都にもどられた中将姫は、菩提(ぼだい)の志(こころざし)やみがたくついに当麻寺(たいまでら)に入り出家剃髪(しゅっけていはつ)の身となり、法如尼 を名のりました。
当麻曼陀羅(たいままんだら)を感得し、19歳の夏、再びこの山に登り一宇の堂を建立。自らの像と嘉藤太夫婦の形像を手水(ちょうず)から刻み安置。この堂に、日張山青蓮寺と名づけてながく尼主(にしゅ)の道場としたのです。

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